はじめまして。

にこにこプロデューサーの”ゆりにこ”と申します。

たくさんの中から、ゆりにこを見つけてくださって、本当にありがとうございます。

わたしのことを初めて知った方がほとんどだと思うので、

今日は真面目にすこし自己紹介をさせてください。

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現在の”ゆりにこ”は社会福祉士とインターネットビジネスの二足のわらじを履いています。

改めまして、”ゆりにこ”です。いつもにこにこしている”ゆりにこ”って覚えてくださいね。

 

わたしは現在、大学時代に取得した、社会福祉士という資格を生かして、病院で相談員(ソーシャルワーカー)の仕事をしています。「何をしている人なの?」とよく聞かれますが、ひとことでいうと”病院の中のなんでも屋さん”です。

就職をしてからの約4年間で、1日約15人の患者さん・ご家族さんとお会いし、延べ1万件の相談に応じてきました。

 

相談内容は、「医療費が支払えない」「退院と言われたけどこんな身体で家には帰れない」「医者の態度が気に入らない」など、多岐に渡ります。

 

2人のお子さんを抱える癌末期のシングルマザーさん、夫からDVを受け逃げるように病院に駆け込んだ女性、刑務所から出所したばかりでお金がない刑余者、お金がないまま健診を受けずに自宅で出産をした女性・・・などはほんの一例で、あげきれないほどたくさんの人生に触れてきました。

次に、過労自殺するのは自分だと思っていました。

 

そんな私の1日は、目が回るほど、忙しいものでした。

忙しいときには、朝4時に起きて出勤し、昼休憩もとれないまま、夜21時までぶっ通しで仕事をしていたときもあります。それだけ頑張っても頑張っても追いつけなくて、涙も出ないほど疲弊していました。それだけ働いても、それは残務。手当は出ないので、お給料はあがりません。それだけ働いて私が得た生活は、手取り15万円で自由のない生活でした。

 

気づいた頃には、「死にたい」ともらすように。トイレでひとりになると、ふと「死にたい」。自宅でシャワーを浴びながら、ふと「死にたい」。そんな日々を送っていた矢先、電通の新入社員さんが過労自殺をされたニュースを見て、「次は自分の番だ」と思いました。

 

そんな日々が続いたことで、当たり前のように心身を崩しました。まずは身体が悲鳴をあげました。熱が下がらなくなったんです。毎日毎日38度台の熱を出しながら通勤していました。自分の身体がおかしいことにも気づきませんでした。というよりも、おかしいとも疑いもしませんでした。【自己犠牲】こそが社会人の美徳であると、信じ込んでいたからです。

 

そんな生活が1年ほど続いたのを機に、近くの小さな病院へ行きました。1年以上も熱が下がらないことに驚かれ、いろんな病気を疑って、細かく採血をしましたが、異常は何もありませんでした。

 

その頃にはもう、心も疲弊し、考える力もなかったと思います。仕事でくだらないミスをしては上司に叱られ、仕事の期限も間に合わず、本当に迷惑をかけました。それでも、患者さんを前にしたら、明るく笑顔で接するんです。「死にたい」と泣く患者さんを、死にたい私が支えるときもありました。

 

さすがに耐えられなくなり、わらにもすがる思いで、精神科を受診しました。長く長く続くうつ(気分変調性障害)と診断を受けました。抗不安薬・抗うつ薬・睡眠薬を飲みながら、這うような思いで仕事をする日々でした。

 

”ゆりにこ”の誕生から、幼稚園まで。とても繊細な子どもでした。

わたしは、平成4年に京都府で誕生をしました。父・母・3歳上の兄の4人で、狭い狭いアパートで暮らしていました。ちょうど私が2歳になろうとしたとき、福井県のなかでもさらに田舎へ引っ越しました。父がもともと福井県出身だったからです。母にとっては、30歳を過ぎての新天地。知人も友達も誰もいない環境で、私たち家族4人と、祖母の5人での田舎暮らしがはじまりました。

 

そんなわたしは、ひとことで言えば、弱く弱く繊細な子どもでした。とにかく人見知りで、保育園の先生にも甘えられず、友達のお母さんすら恐怖の対象で、いつも母の後ろについてまわるような子どもでした。

 

共働き世帯なので、福井に引っ越してきてすぐに保育園で過ごすようになりました。母親の仕事の都合でお迎えが遅くなることもあり、延長保育のお友達の中にぽつんと混ざって、肩身の狭い思いを感じながら、母親の迎えを待っていたことも鮮明に覚えています。

 

母は一生懸命でまじめで、繊細な人です。30歳を過ぎて、何も知らない誰も知らない田舎に引越して、新しい仕事を始めて、いっぱいいっぱいだったんだろうなと今になると理解できます。いつも家の中はピリピリとしていました。子どもらしく振舞えばうるさい」「いい加減にしろ」と母の怒りが飛んできました。泣けば泣いたで「嘘泣きをするな」と怒られ、押し入れに閉じ込められることもありました。

 

ある日、母のピリピリが頂点に達した日がありました。子どもながらに傷ついていたその夜。夜寝る前に母が「話があるんや」と、私と兄を膝の上に乗せました。そして、「今日のお母さんは怖かったやろ?いらいらして怒ってしまった。ごめんね、ごめんね…」と私と兄を抱きしめました。初めて、お母さんが泣いている姿を見ました。当時の私は3歳くらいだったと思います。私に残る、一番古い記憶です。私もお母さんにぎゅっとしがみついて、「ごめんなさい」と謝りました。

そして、3歳の私は、”お母さんを悲しませてはいけない・自分のわがままでお母さんを苦しめてはいけない・お母さんを守ってあげないといけない”そう決意したのでした。

 

 

5歳になると幼稚園に通い始めました。歩いて30分の幼稚園への集団登校が始まりました。とにかく繊細だった私は、水たまりでズボンのすそが濡れただけで泣いて引き返し、歯を磨くのを忘れたと思いだしては泣いて引き返し・・・何かと理由をつけて登園を拒んでいました。通学路で泣きわめいている私をみかねた地域の住民の方が、車に乗せて家まで送り届けてくれたこともあります。そんなわたしを鍛え上げるべく、母親は泣いて戻った私を車に乗せ、集団登校の列まで追いついたところで、大泣きする私を車から引きずりおろしたのでした。

 

そんな当時のわたしの将来の夢は「プリンセス」でした。今の生活から抜け出したい願望があったのかもしれません。自分はプリンセスだと思い込んで、空想の中の、花や木、こびとたちと会話をして、現実逃避をしていました。空想の中の私はとても穏やかで幸福だったのです。

小学生になったゆりにこは髪の毛を燃やされました。

そんな両親のおかげでバキバキに鍛え上げられたので、小学校に入学してすぐの私は、ひとことでいうなら、無敵でした。初めて書いた作文が金賞をとり、版画コンクールでも金賞をとりました。テストは100点連発で、向かうところ敵なし。少々内弁慶なところはありましたが、お友達も本当にたくさんいて、楽しい毎日過ごしていました。

 

当時の私の好きなことは、”歌って踊ること”。モーニング娘。さんの全盛期でした。母がTV番組を録画してくれたものをすりきれるまで見て、真似っ子をしていました。自主的にコンサートをしたり、地元のカラオケ大会に出たりしていました。将来はアイドル!。そんな日々を夢見ていました。

 

そんなわたしも、小学3年生になる頃にはだんだん視力が落ちてメガネをクラスで最初にかけるようになりました。コンプレックスができました。小学4年生頃になるとだんだんクラスの中でも小さないやがらせや、いじめが始まります。小学6年生のころには標的にされてしまい、信じていたはずの友達が口をきいてくれなくなりました。放課後呼び出されたこともあります。髪の毛に着火マンで火をつけられたのもこのときでした。

 

誰にも相談できませんでした。母親にも言えませんでした。なぜなら、私には「”お母さんを悲しませてはいけない・自分のわがままでお母さんを苦しめてはいけない・お母さんを守ってあげないといけない”」という3歳のときの決意があったからです。

 

ちょうどこの頃、3つ上の兄が反抗期を迎えます。じゃれあいの延長戦上だった喧嘩がいつしか暴力になりました。兄は野球を習っていて力も強いんです。日常的に殴られたり、蹴られたりしていました。身体中があざだらけになっていました。母親は兄を叱ることはなく、「健康診断であざがあると虐待って言われるからやめて」と。兄から受けたこのことは今でも私の中ではしこりになっています。兄は高校卒業と同時に家を出ていきました。それ以来、兄とは10年以上口を利くことも、目を合わすこともしていません。先日、兄が結婚をしましたが、おめでとうとも言っていません。兄の連絡先も知りません。

 

このように、私には、安心できる場所がありませんでした。

 

中学生になったゆりにこは、またまたハブられました。

なんとか忍耐で中学生になったものの、小さないじめ経験がわたしの心にはトラウマとして残ってしまい、それ以降、友達との距離感や関わり方がわからなくなりました。新しいクラスでは、どんな風に仲間をつくったらいいかわからず、言葉もうまく出ず、本当につまらない人間だったと思います。

 

そうなると当然のようにターゲットにされます。わたしに2回目のいじめのターゲットがまわってきました。仲間外れにされたし、黒板にひどい言葉を書かれたりしました。もちろん口はきいてもらえませんし、透明人間のように扱われていました。意地もプライドも全て捨て、ほかのクラスメイトに「助けて欲しい」と懇願しました。意地もプライドもすべてを捨てた瞬間です。その頃の私には、”向かうところ敵なし”だった小学1年生の私の面影はありませんでした。

 

高校生から大学生のゆりにこは、病気をしたり、学校に行かなかったり、だめだめでした。

友達になれなかった。

私が入学したのは県内屈指の進学校。地元で出身校を言えば「賢いのね」と言ってもらえるような公立高校で、東京大学へも毎年卒業生を出しています。私の同級生にも、医者になったり、霞が関でお仕事してたり、海外を飛び回ったり、いろんな場所で活躍している人がたくさんいます。

 

一見、恵まれた環境のようですが、高校に入るとともに私のしあわせ度は再びまっさかさまに急降下します。まずは友達関係。もともとひと学年60人の小さな学校で過ごしていた私は、ひと学年330人のマンモス進学校という環境にまったく慣れることなく、心を閉ざしてしまいます。成績もどんどん落ちていきました。勉強の面でも、意識の面でも、レベルが違いすぎたんです。

 

でも高校生活は3年間続くのです。なんとか表面だけでも溶け込むため、必死に言葉づかいや、素行に注意し、努力しました。ストレスMAXになったわたしは、誰もいない放課後に、教卓やみんなの机の上によじのぼって、飛び回っていました。自分を解放できる唯一の時間でした。

 

転機になったのは高校2年生の初夏。なんとか1年間やりきったあとに待ち構えていたクラス替えは、330人の大シャッフル。なんとか作り上げた人間関係もリセットされ、燃え尽きてしまいました。

 

「癌かもしれません」

そんなときに、わたしを突然の病が襲いました。おなかがパンパンに張ったまま、生理が止まっていた私を心配した母に連れられ、地元の婦人科を受診しました。エコー画像を見て、先生がひとこと「今すぐ大学病院に行ってください。入院になると思うので、準備をしてすぐに向かってください」と。

 

大学病院で私を待っていたのは、検査・検査・検査・・・。そして、主治医から言われました。「卵巣が腫れて、水が溜まっています。腫瘍が大きすぎてよく見えませんが、すこし気になるところが写っています。癌かもしれません。癌かどうかは手術をしないとわかりません」と。

 

当時、私の卵巣は40cm大に腫れ、水が溜まり、いつ破裂してもおかしくない状態でした。もし、破裂をすると、激痛が走るだけでなく、大量出血で亡くなることもあるそうです。

 

わたしの生活は逆転しました。一気に”患者”の役割を着せられたわたしは、結局8時間超に及ぶ大手術を受けました。その後の精密な検査で、幸いわたしの腫瘍は良性で、癌ではないことがわかりました。・・・しかし、本当の闘いはそこからでした。

 

すべて嫌になりました。

そのことをきっかけに、すべてが嫌になってしまいました。

 

なんとか表面上だけでも築き上げてきた友達関係、なんとか食らいついてきた勉強、全てに意味が見いだせなくなり、心をふさぎ込むようになります。だって、1ヶ月学校を休んで戻った先に自分の居場所はなかったし、勉強なんてさっぱりわからなくなっていたからです。頑張って頑張って頑張った結果が、これでした。今まで涙をこらえて必死で守ってきたものが、崩れ落ちた感覚です。

 

いつしか学校にいけない日が増え、家で声を殺して泣きながら、ただただ時間が過ぎるのを待つ日が増えました。とても悔しかったです。立つことができない日もありました。悔しさで自分で自分を殴り、自分で自分を血が出るまで引っ掻き回して泣きました。

 

いつかこんな生活から抜け出せる、わずかな希望をもって、わたしは大学進学を決めます。私を苦しめる学校という存在の優先順位を最低にまで下げて、窮屈な人間関係も、必要のない勉強も、不必要なものと割り切って、大学合格することだけを目指して、勉強をしました。志したのは、福祉系の4年制大学です。自分のように、苦しんだひとたちを助けたいという思いがありました。

 

一点集中して取り組んだ私は、ぶっちぎり首席合格で志望校に入学。本来であれば、県外の大学で新天地で頑張りたかったのですが、心身ともにバランスを崩していたこと、そして、”お母さんを悲しませてはいけない・自分のわがままでお母さんを苦しめてはいけない・お母さんを守ってあげないといけない”という決意から、踏み切れませんでした。私が家にいなくなったら、お母さんを助けられないからです。当時、お母さんはかなり仕事や家庭のストレスで精神的に落ちているのが明らかで、父親との関係も冷え切っており、私がいなくなったらお母さんが死んでしまうのではないかと怖かったからです。

 

高校を卒業し、志望していた福祉系大学へ首席合格を果たしたわたしは、同じ志の仲間と一緒に時間を共にするようになりました。大学で出会う友人は、多くは語らずとも、どこかで分かり合えるものがあり、とても居心地の時間を過ごすことができました。波乱万丈のこれまでとは正反対のおだやかな時間に心をやすめることができました。そして、今の職場である病院に就職をしました。

 

社会人になったゆりにこ。

ようやく、人生にあかりが見えたのもつかの間でした。社会人になった私を待っていたのが、はじめに書いたような激務・ストレスフルな日々です。子ども時代から今まで、一生懸命頑張ってきました。いじめにも負けず、家族環境にも負けず、病気にも負けず、一生懸命一生懸命…。生きてこられたのは、幼少時代のわたしが、プリンセスに自分の未来を重ねて夢見たように、「いつか自分も幸せになれる」と言い聞かせてきたからです。

 

そんな私が、そこまでして手に入れた生活は、手取り15万円で精神科通いの日々です。結局何をしてうまくいかないと、絶望したのでした。

 

だめだめだったゆりにこが伝えたいこと

転機になったのは、社会人4年目の2018年5月に入ってからです。もともとネットサーフィンが好きだったわたし。小学生時代から、学校から帰ったらネットの掲示板に張り付いていました。当時は、”ふみコミュニティ”や”モバゲー”が流行っていました。インターネットには違う居場所があったんです。インターネットが外の世界やつながりを見せてくれたからこそ、生きてこられたのかもしれません。

 

ある日、仕事終わりにいつものように、横になりながらネットサーフィンをしていたとき。たまたま、インターネットを使ったお仕事について発信をしている人を見つけました。何気なく登録をした無料メルマガで情報を得ているうち、インターネットを使った働き方は自分が理想とする世界だと感じるようになりました。その働き方というのは、インターネット上で、ブログやメルマガ、その他コンテンツを作って、それらが自動で働く仕組みを作り上げるというものです。

 

はじめこそ、コツコツと作業を積み上げる必要はあるものの、一旦、その仕組みを作り上げてしまえば、あとは”寝ていても遊んでいても、自動で収益が発生するようになる”ビジネスでした。

 

嘘だと思いました。

 

でも、その働き方は、私が今までしてきた全ての我慢から自分を解放してくれると確信しました。進学しても就職しても何も人生を変えられず、もう残る手札がないと絶望していたわたしにとっては、最後の切り札を見つけたような気持ちでした。

 

私の理想とする生活とは、”精神的・経済的にもゆとりをもって、大切な人と、1日1日を過ごすこと”です。その目標を達成するために、いまこうして情報発信をしています。

 

ご覧のとおり、私はどこにでもいる26歳です。横に並べられたら、どこにでもいる26歳以下だと思います。だって、美人でもなければ、才能もないし、特技もありません。

 

そんな私が、人生の最後の切り札と取り組んでいるのがこのお仕事です。本当に必要な人にこの情報が届いてほしくて。だから私は、自分のこれまでの人生を包み隠さず出しました。

 

この新しい挑戦を始めた今、私の毎日は大きく変わりました。本業から帰ってから、ブログやメルマガ・Youtubeを更新して、とても負荷がかかるし、大変です。

 

でも、ビジネスを通して、新しい出会いに恵まれ、新しい経験に恵まれ、少しずつ自信をつけることができました。そして、頑張ったら頑張った分、成果が得られることも実感しました。

 

毎日が楽しいです。しあわせです。少し前の自分に「楽しいことが待ってるよ」「大丈夫だよ」と声をかけてあげたいです。

 

どうやって、だめだめだったわたしが収益を得られるようになったその全てはメールの中でお伝えしています。メールだからできるお話もしています。プレゼントも用意しているので、ぜひ、受け取ってくださいね^^

 

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

出会えてよかったです、ありがとう。

 

ゆりにこ